昨日の北山緑化植物園吟行は、いつもと違ってメンバー全員で同じコースを歩きました。正面玄関から入らずにバス停横の脇道から沢へ降りました。いつもならバス待ちの短い時間に覗く程度でしたがゆったりと時間をかけて吟行するととてもよいところでしたね。

愛の目で見る

皆さんのヒントになればと思って吟行の道中はなるべくつぶやくようにしています。ただ漫然と歩くのではなくて何かを見つけること、具体的に何かを感じることを強く意識します。対象物に深く心を通わせることで作者の個性や情というものがにじみ出るからです。そのためには青畝先生が言われた愛の目、愛の心を養うことが重要です。

例えば、溺れているかのように四肢をもがいている小亀の所作を見て愚かで滑稽だと詠むのではなく、必死に泳いでいる亀の姿に自分自身を重ねて、頑張れと励ます気持ちをもって写生してほしいのです。そうすれば、やがて蓮の葉とか棒切れとかにたどり着いた瞬間に安堵の気持ちが芽生えるでしょう。そのような励ましや安堵の気持ちを写生する訓練によって作者の個性が培われるのです。

とても有益とは思えない醜草や気持ち悪い小動物であっても決して彼らを見下したり、差別意識で詠んではいけません。生きとし生けるもの全てに命の尊厳があります。むしろ健気に生きている彼らの営みから学びましょう。

悲しいことや苦しいことも宿命だと諦め嘆き恨やむのではなく、神の試練の過程と受けとめて詠むことで勇気が与えられ希望につながります。さらにそれは、その作品に共感してくれるひとをも慰め励ますことになるのです。これが青畝先生から教わった『俳句のこころ』です。

俳句は信仰

むかし「俳句は究極は信仰である」という虚子先生の一文が俳誌玉藻に掲載されました。この文章に強く感動された紫峡先生(みのるの恩師)は、自身の決意を手紙に書いて虚子先生あてに送られたそうですが、虚子のいうそれと、紫峡師の感動された内容とは少しズレがあるとぼくは感じています。

あれこれと疑念を抱いて、あるいは批判しながら学んでも決して身につかない。伝統を重んじ指導者を信じて進むことが大事だというのが虚子のいう信仰の意味ではないでしょうか。

一方、青畝師や紫峡師のそれは、「愛の目で見、愛の心で詠む」という慈しみの精神を養うこと、つまり神の摂理を信じ、キリストの愛に倣う信仰の精神を言われているのではとぼくは思うのです。

虚子のことは伝え聞く範囲でしか理解できませんが、当時の俳諧における虚子は、いわば神のような存在で師弟関係に於いては、近寄りがたい距離感があったようです。けれどもぼくは、師に慣れることは自戒しつつも青畝師や紫峡師に対して隔たりを感じたことは一度もありません。そして青畝師や紫峡師に教えていただいた奉仕の精神と俳句の心とを大切に伝えていくのがGHの使命だと考えているのです。


一片の病葉宿す瀬石かな みのる