みのる俳句の原点

みのる俳句の原点は、阿波野青畝先生、小路紫峡先生から教えていただいた『俳句のこころ』です。

ぼくは、自身の進むべき道に迷ったときは、座右の書である青畝先生の『俳句のこころ』を読み返します。今日は、その冒頭に書かれている俳話の一部をご紹介しましょう。

青畝先生の俳話(著書、「俳句のこころ」より)

よい俳句を作るには、まずものを見なくてはならない。深く見ること、じゅうぶん心にひびくところまで見ることでなくてはならない。それには愛の気持ちが肝心で、ものをなつかしんで見ようと思わねばなにもならないのである。

自然と言おうか、周囲と言おうか、私らがものを見る時の対象を、何度でも繰り返して深く見ているうちには、向こうから私らになついてくる感じがする。私らは向こうから愛を呼びかけてくるのを大変幸せに思う。いつのまにか相抱擁していると言っても少しもさしつかえない恍惚境が与えられるのである。

自然を軽蔑しそうな人はほんとうに判ってくれないかもしれぬ。また、実際に自然を余り高く買うことを嫌がる人の多いことは私も知っている。これはつまり食わずぎらいというものだと思う。一度謙虚な気持ちになってみて、自然から美を捜してみようとしたらどうか。一旦自然の美を感得したら、そのあとはお互いに交流しうる道が開けるかと思う。

愛の気持ちの通わない自然の見方は、実に冷酷な人間である。そういう人間に詩性は求められない。

愛は芸術の華である。俳句では愛を自然にふり向けることである。どこまでも自然と共にあることである。自然を離したら、よい俳句はありえない道理になる。

自然から離れるという訳でもないが、ちょっと角度を反らして他面に愛を向けようとする。そうするうちに、他面に向けることを主眼視する傾向に歩んでゆくことがある。たとえば人間の欲望に主なる興味を寄せるとする。そして人間性ということが面白くなって、追っかけてゆくならば、俳句はある限度まで膨張するが、ついに破錠の悲運を見るということになるだろうと思う。

私は常に俳句には限界があるということを言いたい。ある程度拡張してゆくことも結構だと思うのであるが、やはり俳句は自然を中心に守りぬかねばいけないのである。

自然諷詠こそが俳句の生命線であるという青畝師の熱い思いがひしと伝わってくるお話ですね。表現力の巧拙というような小手先なことではなく、愛の気持ちを通わせて自然と係ること、つまり自然から習うという謙虚な姿勢を養うことが大切なんだということです。

桑原武夫の第二芸術論

実はこの俳話は、平明な自然写生の俳句を凡作だとした桑原武夫氏の第二芸術論に触れて書かれた一文です。反論というよりは本物の俳句の醍醐味を掬し得ない軽薄な批判に屈してはいけないという決意が現れています。

句の解釈というものほどわれわれにおいて厄介なものはない。句作と同じように解釈においても凡人の一知半解では甚だ困るのである。誰にでも解釈して欲しいのだけれども、そうは問屋が卸してくれないので、もどかしく思うのみで致し方がない。

その道に長けた人があり、その人がよく解釈してくれていることによって、句の生命は伝統されつつあるし、私らも一応それで安んじる気持ちがあるのであった。自然をいつくしみ、こよなきものとまで自然に情愛をふりそそぐならば、自然を諷詠するところの句を解釈するのは決して厄介だとは思えないのである。

唯自然を軽蔑しそうな人が解釈すると、秀句でもなんでも駄目にされてしまう。俳句に興味の持てない人の批判は狂人に刃物を渡すのと同類である。

難しい議論ではあるけれども、伝統を育み継承していくという使命のためには様々な戦いがあったのだという史実を私たちは知らねばならないと思います。他者を批判することは容易いことですが、その道を信じて推進していくためには、謙虚さと忍耐と努力とが必要だという事でしょうね。

萩焚いて先師の心たづねけり みのる